「戦争はなかった」(小松左京)

これこそがまさにSFの提示する「恐怖」

「戦争はなかった」(小松左京)
(「暴走する正義」)ちくま文庫

同窓会に向かおうとしていた
「彼」は、
すでに飲んでいたため、
2階の会場への階段で
足を踏み外し、
頭を打って脳震盪を起こす。
宴会の席で「彼」は戦時中の
出来事に思いを馳せるが、
「戦争を知らない」と言った
仲間たちに腹を立て…。

戦地に赴く級友を
見送ったにもかかわらず、
その級友は「知らない」と言い、
周囲もまた「戦争などなかった」と
言い切るのです。
「彼」にしてみれば、
ともに経験したはずの仲間たちから
「戦争などなかった」と言われることは
ゆゆしき事態なのです。

もちろんそれは
同窓会の仲間だけに限らず、
帰宅すると妻までが
「知らない」というのです。
「彼」が混乱するのは
無理もありません。

ここで考えられるのは、
A:戦争のない世界に「彼」が迷い込んだ
B:戦争はあったが、誰かがそれを
 一瞬のうちに隠蔽操作した、の
どちらかです
(作者は「彼」の思考として、
 C:周囲が戦争をなかったことにした
 D:自分の精神が異常を来した
 E:自分がまだ悪夢を見続けている
 を提示していますが、
 読み手からすれば
 それはあり得ないことです)。

戦争があろうとなかろうと、
今の生活が実在しているのだから
それでいいではないかという、
妻の説得に一度は納得した「彼」です。
しかし、それでは
「死んでいった者たちはどうなるのだ」
という思いから、「彼」は
街頭で戦争の存在について訴えます。
「彼」を止めにきた警官と医局員は、
「彼」を強制的に連れ去ります。
A、Bどちらとも考えられる余地と、
後味の悪い思いを残して、
物語は幕を閉じます。

ここで考えるべきは、
これが単なるSF短篇ではなく、
何かの暗喩・寓話ではないかと
いうことです。
本作品が書かれたのは1968年ですが、
現代の若い人たち(50を越えた
私を含めて)は戦争を
経験していないため、
本作品で描かれている
「戦争はなかったと記憶している人々」と
同じ立場なのです。

「戦争があって今の日本がある」と
意識している人間と、
「戦争にかかわらず現在がある」と
無意識に理解している現代人とでは、
そのギャップは本作品の
「彼」と「周囲」並みに大きいはずです。

戦争を二度と起こさないためには、
過去に起きた(起こしてしまった)戦争を
直視することから始まるはずです。
本作品に描かれている世界が
迎えたであろう21世紀の姿を
考えたとき、空恐ろしいものを
感じてしまいます。
これこそがまさに
SFの提示する「恐怖」です。

(2020.4.5)

Carlos Eduardo F Moreira CarlinhosによるPixabayからの画像

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA